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帝国の治外法権 2

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マイケル・J・ブラウン少佐の事例

 ブラウン少佐(41才)は、海兵隊在籍19年の古参兵である。2002年11月、沖縄本島中部??海兵隊員約4400名を擁する大規模な基地??キャンプ・コートニー第3海兵遠征軍司令部に彼は配属された。彼にとって、これは2度目の琉球赴任だった。ブラウンはいわゆる「ムスタング(野生馬)」??兵から階級を駆け上がった士官である。1984年、テキサス州メナールの自宅から海兵隊に入隊し、上等兵に昇格してから抜擢され、国庫負担の大学教育の機会を得た。テキサス農工大学で学び、1991年5月29日、少尉に任官された。その後も順風満帆で、2001年3月1日、少佐に昇進した。 2002年当時、ブラウンは、基地外だが、近隣の具志川市内にある米軍住宅地で、アメリカ人妻リサ、幼い子ども二人と一緒に暮らしていた。

 彼の事件に関わった誰ひとりとして、士官たる者が沖縄県警の厄介になった先例など思い出せなかったし、それまでの10年間、確かに一例もなかった。ブラウンが開設したウェブサイト『ブラウン少佐を救え』に、数多くの関連記事と資料に加え、彼が拘置所から投稿した長文で脈絡のない罵倒文書が掲載されているので、彼の経歴と考え方について、それに日本の警察と裁判官、沖縄県民一般、駐日米国大使ハワード・ベイカー、ジョージ・W・ブッシュ大統領、その他人物の公正さと力量について、彼の私見を非常に多く知ることができる。
http://www.majorbrown.org/index.htm

 2002年11月1日、その日の軍務を終えて、ブラウンはキャンプ・コートニー士官クラブに顔を出した。その夜は、カラオケ・パーティの夕べであり、ブラウンはカラオケが好きだと言う。その夜、同僚士官たち、それに(彼の妻はいなかったが)その妻たちと談笑し、グラスを傾け、玉突きをし、カラオケ伴奏に合わせ、マイクに向かって甘く囁き歌った。真夜中ごろ、クラブがお開きになると、基地裏通用門を抜け、3キロあまり離れた自宅へ歩いて帰ろうと思った。ところが、その夜は裏門が閉まっていたので、正門まで戻らなければならなくなった。クラブにコートを置き忘れたので、寒くなってきた。酔ってもいたと彼は認めている。

 ブラウン本人の供述によれば、2002年11月2日午前1時ごろ、キャンプ・コートニーの正門へ向かって歩いていると、沖縄に嫁いでいる40代フィリピン人女性であり、レジ兼ウェイトレスとして士官クラブで働くビクトリア・ナカミネ(漢字表記不明)に、お宅までお送りしましょうかと声をかけられ
た。
(訳注: 沖縄タイムス2002年12月5日??
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200212051300.html
マイケル・J・ブラウン容疑者は乗用車で帰宅途中だった被害女性に、「深夜でタクシーを呼べない。自宅まで送ってほしい」と乗車を懇願し、女性の善意に付け入る形で犯行に及んでいたことが4日分かった)

 その後の経緯については、係争中である。彼女の車でキャンプ・コートニーを出てから、閑静な道路上に車を停め、正しい道筋について激しい議論になった。あきらかに助けを呼ぶのを邪魔するために、ブラウンがナカミネの携帯電話を奪い取り、近くの天願川に投げ込んだことは両者共に認めている。

 ブラウンの供述では、激昂した彼女は正門へ歩いて戻り、彼が2度にわたりレイプしようとしたと憲兵隊に訴えでた。憲兵たちは、基地外の事件であれば、沖縄県警を呼ばなければならないと応えた。具志川署の警察官たちが現場に駆けつけて、イナミネが申し立てる、ブラウンが淫らな行為におよび、衣服を剥ぎ取ろうとしたという告訴を受けつけた。彼女の供述によれば、なんとか彼に抗って車から抜け出た後、男が冷静になったかどうか、様子を見に戻ると、彼は携帯電話を奪い、さらに強姦しようと試みた。彼女の主張では、攻撃をかわすために、彼女は猛然と争った。その後、彼は走って自宅へ逃げ帰り、彼女の方は、事件を通報するために、キャンプ・コートニー正門へ車で戻った。

 ブラウンの主張は首尾一貫しない。いかにも声高で不愉快だったが、自分たちは口争いをしていただけだと説明したかと思えば、女が誘いをかけてきたと言ったりする。「女に誘惑されたが、私は誘いに乗らなかった。だから、その怒りのせいで、彼女は告訴してしまったのだ」と彼は繰り返し主張してきた。[23]

 基地正門を警備していた米兵たちは、ナカミネが現れた時、着衣は特に乱れず、きちんとした服装だったと断言している。その一方、アメリカ民間人の士官クラブ支配人であり、ナカミネの上司であるリチャード・ドウォルドは、事件に関する彼女の供述を追認している。彼女は犯人の名前を知っていなかったので、ナカミネが車に乗せた人物はブラウンであると警察に告げたのは、ドウォルドである。

 ナカミネの告訴を受けて、警察は慎重に捜査を進め、1ヶ月も経ってから具体的な処置をとった。2002年12月3日、那覇地裁が強姦企図・器物(携帯電話)損壊容疑でブラウンの逮捕状を発行した。[24]  東京の外務省が海兵隊に身柄の引渡しを要請した。米国大使館は、回答を2日間遅らせたすえ、「この事件に関して日本政府が提示した状況は、日米両国間で合意された標準的な慣行からの逸脱を正当化しないという結論に合衆国政府は達した」と言明し、ブラウン少佐の拘置は米側が継続するとそっけなく表明した。沖縄の報道陣は、米側は強姦未遂を「凶悪犯罪」と考えていないと推測した。このような米側の非協力的な態度は、おそらく海兵隊関係者だけは別にして、誰にとっても喜ばしいものではなかった。

 12月6日、大勢の警察官がブラウンの自宅と執務室を捜索し、証拠になりそうなものをすべて押収し、事のなりゆき上、妻子を恐がらせてしまった。[26]

 小泉首相は、自分としては、米側の拒絶を了解すると発言したが、彼の外務大臣・川口順子はそこまで迎合しなかった。1995年の「好意的な考慮」に関する合意内容に何が含まれているのか、日本側は釈明を求めなければならないし、昔ながらの地位協定の弾力的運用と言っても、協力するか非協力であるかは、米側の自由裁量に任されたままなので、今回の事件には不満が残ると川口は主張した。[27]

 稲嶺沖縄県知事は、「綱紀粛正と予防措置をわれわれが何度も要求しているのに、さらにまた米軍人によって問題が起こされた……これは、兵士たちに模範を示すべき指導的クラスの幹部軍人が女性の人権を蹂躪(じゅうりん)した凶悪犯罪なのだ。きわめて遺憾であり、私は強い義憤の念を抱かざるをえない」と吐き捨てるように言った。

 沖縄県議会は、米軍にブラウンの引渡しを要求する抗議決議案を全会一致で採択した。極めて意義深かったのは、米軍基地が立地する都道府県の全14知事で新たに結成された連絡協議会が、「米軍地位協定の改定によって、真の日米協力関係を樹立する」ことを求め、自由民主党に申し入れたことである。[28]

 ついに2002年12月16日、那覇地方検察庁がブラウンを起訴し、地位協定規定に厳密に基づき、即日、米国は身柄を引き渡した。[29]

 ブラウンは、その時から家族の協力を得て、前代未聞の法廷闘争キャンペーンと並行して、日本の刑事裁判制度は不公正であり、米国当局者たちは、日本国内の基地を維持し、目前に迫ったブッシュのイラク侵略に向けて日本の協力を得るために、彼を無実の罪に陥れようとしている…などと主張する扇動的な宣伝活動を展開した。

 ブラウンが最初に打った手のひとつが、全米軍事司法集団に所属する米人弁護士ビクター・ケリーの確保であり、2003年3月7日、同弁護士はワシントンDC連邦裁判所に人身保護令状の緊急発行を請求した。米政府は、ブラウンを日本側に引き渡して、アメリカ公民として憲法で保障された彼の権利、すなわち「強圧的な刑罰を免れ、実効的な弁護を受け、正当な保釈を保障される権利」を侵害していると彼は主張した。「(日本では)正当な法手続きになんの意味もない。日本の『有罪判決』率は100パーセント近くである。 起訴されることは有罪宣告と同じだ。推定無罪は司法のたてまえにすぎない。ほとんど例外なく、全被告は有罪であり、誰ひとり無罪放免されない」と彼は付け加えた。事態を打開するために、「被告(すなわち、アメリカ合衆国)が……日本国政府に『好意的な考慮』を促して、この件にかかわる優先的裁判権を放棄するように要請することをに命じ」、さらに「被告(合衆国)が優先的裁判権を行使することを命じる」判決を彼は求めた。これこそは、150年も昔の中国で宣言されたのと変わらない治外法権の論理の完璧な実例である。

 言うまでもなく、ワシントンの法廷は請求を却下したが、提訴の事実があるだけでも、ブラウンは実績を補強できたのである。[30]

 ブラウンは政治の力の動員も図った。上院議員ケイ・ベリー・ハチソン(共和党・テキサス州)およびブラウンの出身地であるテキサス州第21区選出・共和党下院議員ラマー・スミスの支持を彼は取りつけた。両議員は、国防長官に、ブラウンは公正に処遇されていないと懸念を表明した。ブラウンはさらに政治的賭けに出て、友人たちと海兵隊仲間たちに、「ブッシュ大統領は、日本政府が無実の海兵隊員を迫害しているのを、もはや看過できないとして介入すべきであり、今や遅きに失している」とそれぞれの居住地の選出議員に宛てて書くように強く要請した。

 ブラウンが拘置所内から時機に応じて発信した実況報告は、沖縄に駐留する海兵隊内部で広く配信された。彼の論点は数多いが、とりわけ隊員たちへの警告として、「日本で逮捕された米軍人が、後で無実とされるケースは一例もない」と論じたてた。時が経つにつれ、彼は、海兵隊の法務職員から一般の沖縄県民まで、思いつくかぎりの誰彼に対し難癖をつけ始めた…すなわち、「オキナワ人が自分の土地と島を取り戻すのを見たいものだ。米国の軍人が島を離れ、他所で金を使うのを見たいものだ。そうすれば、いやらしいオキナワ警察連中がわが同胞に手をかけずに済む。この解決策が全員をハッピーにできる。違うか? 誰が見ても、オキナワ人はわれわれがここにいて欲しくないのだ。自分
の地域経済にわれわれ米兵が金を注ぎこんで欲しくないのだ。わが米軍基地が提供する雇用が欲しくないのだ。連中の敵に対する抑止力であるわれわれを欲していないのだ。隣人であるわれわれを欲していないのだ」[31]

 この類のレトリックは、実効的な防衛戦略と言うよりも、ブラウンの傷ついた自我を代償する慰めと言うべきである。だが、(海兵隊)最高司令部を動かして、政治家・政府当局者たちに向かって、軍が地位協定の弾力的運用について不満に思っていることを表明させるには効果があったようだ。

 2003年5月13日、ブラウンの主張にとって、公開法廷で大きなチャンスが巡ってきた。ビクトリア・ナカミネが、「私は告訴を撤回したかったのです。私は上手に日本語を話せません。自分の供述書に署名はしましたが、何が書かれていたのか、知りませんでした」と証言したのである。さらに彼女は続けて、「私は告訴を撤回したいと言いましたが、警察官と検察官たちは聞いてくれませんでした」と陳述した上申書を、5月1日に裁判所に提出したと言った。

 これは決定的な転機だった。那覇地方検察庁次席検事・川見裕之が、「本件は被害者からの告訴に基づき起訴される不法行為であり、被害者の意志に逆らって刑事訴訟として立件するのはありえない」と陳述した。[32] この新しい事態に対応して、裁判所は、保釈金1000万円、旅券を預けること、行動範囲をキャンプ・コートニー基地内に限ること、沖縄を離れようとしないことを条件に、ブラウン少佐の保釈を許可した。日本の裁判所は弁護側からの保釈申請の14.7パーセントしか許可しないので、これは異例の処置だった。[33]明らかに裁判所はナカミネの告訴撤回発言に影響されたようだ。

 だが、日本における刑事裁判は、陪審団によってではなく、3名の裁判官によって審判されるのであり、その裁判官は、人が真実を語っているか否かを見抜くことにかけては自他ともに認められている経験豊富な専門家であると知るべきである。彼らはアメリカ流儀の証拠採用規則に縛られていないし、事件に関連するものなら、伝聞証拠、噂、流言を含め、なんでもすべて聞くことができるし、聞きたいと思っている。日本の法規で、アメリカの慣例に比べて称賛に値する特徴にひとつに、性犯罪被害者である女性の証言は犯罪者のそれよりも重視しなければならないという裁判官が自らに課す規則がある。

 横田信之裁判長は、おそらく雇用者および係累からの圧力を受けて、ナカミネは撤回したのだろうが、最初に警察に語った供述は信用に価すると判断し、ブラウン裁判の続行を決断した。

 ここで、ブラウンの怒りが爆発した。ブラウンは、ベイカー米国大使宛ての書簡で、「裁判官と検察官が癒着し」、また、ナカミネが自分は日本語が読めないと認めているにもかかわらず、具志川署が供述書を作成し、彼女に署名させて、彼に濡れ衣を着せたと告発した。また彼は代理人に指示して、まず福岡高等裁判所、次いで最高裁判所に、事件を担当する裁判官3名は、あきらかに彼に反
感を抱いているので、解任を求めると抗告した。いずれの抗告も不首尾に終わったが、この行動によって、ブラウンの事件が新聞紙面を賑わしつづけ、米大使館が地位協定に必然的に付随する文化摩擦を憂慮することになる一因にもなった。[34]

 2003年夏までに、ブラウンのウェブサイトへのヒット数は6万8000を超え、日本の司法は公正なのかと、議員政策秘書たちから問い合わせが殺到し、それに応えることが国務省の日常業務のようになった。加えて、イラクでの戦争も影響をおよぼし始めた。米兵たちの死者数が増え続けるにつれ、国防総省は、志気喪失を防ぐために、軍人の「人権」を擁護しなければならないという感触に駆り立てられるようになった。朝日新聞は、米政府当局者が「米軍兵たちは、日本を防衛するために沖縄に駐留している。必要あれば、彼らは死ぬ覚悟でいる。それなのに、事あるごとに、すぐに彼ら(沖縄県民)は米軍人を罪人扱いする」と語ったと報道した。[35]

 こういう状況において、沖縄女性に対する野蛮な強姦・殴打事件がさらにもう1件発生し、なお一層の大衆的な反基地感情を煽りたてた。米政府としては、容疑者を速やかに引き渡さなければならないと承知してはいたが、日本政府に強く迫って、従来よりも米国基準に適合して、余儀なく日本の刑事訴訟手続きを修正させるべき時が来たと結論した。この重大決定により、日米関係は暗礁に乗り上げることになった。

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ホセ・トレス上等兵の事例

 金武町は、金武湾と太平洋に向かって開いた、かつては清浄だった海浜を数多く擁している沖縄中部の小さな村落である。現在の浜辺は、海兵隊が上陸作戦の訓練と軍人・家族のリクリエーションのために使用している。広大に展開するキャンプ・ハンセン、そして5800名の海兵隊員たちの存在が、村で他を圧倒している。史上最大の沖縄県民の米軍排斥運動のきっかけになった1995年の12才学童少女の誘拐・殴打・輪姦事件も、現場は金武町だった。また、1995年まで、155ミリ砲弾を街越しに発射し、森林山地を根こそぎにし、出火させていた定期的な海兵隊の火砲実射訓練の場も、金武町だった。1995年、強姦事件で沖縄県民の怒りが爆発した時だけは、さすがに海兵隊は砲撃を中止した。

 アメリカのどこであっても、あるいは日本本土のどこであっても、金武町でのと同じように、海兵隊の行動がそのまま再現される(あるいは許される)とは、とても考えられない。その反面、1950年代末期、キャンプ・ハンセン設営のために米国軍隊が銃剣を突きつけて占拠した土地の代償として、今でも金武町の多くの老齢住民たちは日本政府が支払う地代を生活の糧にしている。

 ブラウン少佐が書いた粗雑な論評記事のひとつに、金武町についての彼の印象が示されている??「金武町の唯一の存在目的は、米兵接待である。基本的にこの町は、故郷から数千マイル遠く離れ、性欲ムンムンの若い男たちの遊び場である。なるほど売春は沖縄の法に違反していても、沖縄当局と米軍当局の全面的理解と支持のもと、金武町は堂々と営業している。米兵たちはバーでしこたま呑んで、喧嘩し、ママサンに金払って、ガールフレンドを席に呼んでもらう。取引きとしては、手技、尺八、生の本番、その他なんでもござれだ」[36]

 金武町をこの足で訪れ、町役場の皆さんに基地の存在と「軍事訓練」の影響についてインタビューした経験者として、筆者(チャルマーズ・ジョンソン)は付言しなければならない??ブラウンの描写が真実であるのは、キャンプ・ハンセン正門前に続く、バーとナイトクラブが200ばかり軒を連ねている道路沿いの小さな界隈に過ぎない。

 2003年5月25日(日曜日)未明3時15分ごろ、キャンプ・ハンセン所属海兵隊員ホセ・トレス上等兵(21才)は、女性(19才)同伴で金武町のバーを出て、もよりの路地で性交し、女性の顔面を殴打し、鼻をへし折った。彼女の女友だちがキャンプ・ハンセン正門へ行き、トレスの犯行を通報したので、ただちに憲兵隊が彼を拘置した。6月12日、地元警察が捜査を開始し、6月16日、強姦・傷害容疑でトレスの逮捕状を取った。

 同日、東京の日本政府が米国大使館にトレスの身柄の引渡しを要請した。新しく着任したばかりのハワード・ベーカー大使は事件を謝罪し、沖縄駐在海兵隊総司令官ウォーレス・C・グレッグソン中将に対し、速やかに応じるように督促した。グレッグソン中将は逡巡したが、それでも稲嶺知事を訪問し、「遺憾」を表明した。稲嶺は、「できるだけ早く、一刻でも早く、(米国が)容疑者を日本側に引き渡すことを期待する」と応えた。[37] ベーカー大使は、日本側の地位協定の全面改定要求が高まる前に、なんとか機先を制して、それを抑え込むように努力したいと語った。コリン・パウエル国務長官も、ASEAN(東南アジア諸国連合)地域フォーラム会合出席のために訪れていたプノンペンで、川口順子外相に謝罪した。

 逮捕状が発行されてから2日後の6月18日、海兵隊がトレスの身柄を引き渡した。トレスは当初、「合意」のセックス、つまり被害者は金で買った売春婦だったと主張していたが、7月8日、検察が彼を起訴した後は、強姦と殴打の罪を認めた。9月12日、那覇地方裁判所はトレスに禁固3年6ヶ月を宣告した。[38]

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地位協定交渉

 今回の事件は、沖縄における軍人性犯罪の膨大な記録のなかで、陳腐でありふれた典型例のひとつに過ぎなかったが、それでも日米両国政府にとって、我慢の限界を超えるに充分だった。日米両国は出口の見えない難局に立ち至ったのであり、これを解きほぐすには、「地球規模の武力再配置」など、米側から口実を設けて、沖縄から相当数の海兵隊員を撤退させる必要があった。[39]

 日本側としても、地位協定と日本の主権の問題を天下に曝しているトレスの事件に加え、多くの係争を抱えていた??

 ブラウン少佐裁判は継続中だった……3月、キャンプ・ハンセンの国防総省職員が酔払い運転で正面衝突事故を起こし、相手車両に乗っていた沖縄県民を死に到らしめた……5月7日、海兵隊員が徒歩で帰宅途中の店員を襲って、強盗容疑で逮捕された……沖縄市内のバーのトイレで、キャンプ・フォスター配属海兵隊員の妻が沖縄女性を殴打し、首を絞めようとした……給料日の翌日にあたる5月31日の午前1時から3時にかけて、海兵隊員5名が酒に酔ったあげく、タクシー料金4800円の踏み倒し、個人住宅への不法侵入、沖縄市市民会館の玄関ガラスの損壊の各容疑で逮捕された。沖縄市は嘉手納空軍基地にじかに隣接していて、かつてはコザ市と呼ばれていたが、コザの地名が、バーの絶え間ない喧燥と米軍人同士の人種間暴動に重なる同意義語になってしまったので、琉球列島の施政権が日本に返還された1972年、市の名称が変更になった。

 2003年6月いっぱい、稲嶺知事が副知事を伴って、他の米軍施設立地13都道府県への「巡礼」訪問の旅を行い、地位協定改訂を政府に強く求める沖縄県の政治運動への協力を各知事に要請した。全知事が了解した。稲嶺の最大の成果は、人気者の右翼政治家であり、長く米軍基地に敵意を示してきた石原慎太郎・東京都知事の支持を得たことである。[41]

 石原は、「日本に基地がなければ、アメリカは国際戦略を遂行できない。わが国はアメリカに多大な恩恵を与えているのだ……第2次世界大戦が終結して半世紀が経ったというのに、日本は劣等国の地位に置かれたままである。これは誰が見てもおかしい」と論じた。[42] 世界最大の都市の行政責任者であり、総理大臣候補の呼び声も高い人物による、この類の発言は、アメリカ追従姿勢は終りにするべきだと政府に要求するうえで、現実的な圧力になる。

 しかし、日本側が足場を固めているうちに、アメリカ側も強硬姿勢で臨むと決意していた。米大使館は、トレスの身柄の日本側警察への引き渡しにあたり、米軍人が「県警察署に留置されている間、公正で人道的な処遇」が保証されるように、即座に交渉に入ることを望むと表明した。[43] 米側の言い分では、起訴前の身柄引渡し要請に対して、「好意的な考慮」を払うことを1995年に同意した時に、その交換条件として、日米の法律制度の違いを考慮し、日本が米軍人に特別待遇を与えることを米側が要請していたと言う。そこで米政府は、日本側が地位協定の履行規定の新たな規範を無視しないこと、それも45日以内に実行に移すことを要求した。

 朝日新聞報道によれば、米側はブラウンの事件に影響されているのであり、当のブラウンが無罪をあくまでも主張し、裁判が続行中であるにもかかわらず、日本では公正な裁判が受けられないと信じているために、みずからの弁護を拒否していることに拘(こだわ)っていた。

 また朝日は、ハーグに新設された国際司法裁判所への参加を米国が拒否していることを踏まえ、ブッシュ政権は、単に日本だけではなく世界に対しても、新基準を設定していると論評した。かつて米国がみずから成立に協力した多くの国際条約に従うことを拒否していること、法的根拠がないままにイラクを侵略したこと、力を過信して、国際問題で多かれ少なかれ思うがままに行動していることも朝日は指摘した。

 たぶん日本で基地問題において一番の情報通である琉球大学教授・我部政明が、「ウオルフォウィッツ米国防次官その他の現政権当局者たちは、アメリカの司法は世界のどこでも通用すると信じているのであり、日本との2国間関係への配慮を必ずしも重要視していない」と語り、朝日はこのコメントも引用している。我部によれば、イラクとアフガニスタンにおける困難な軍事作戦のために、米国は、軍の風紀の乱れに対する沖縄の果てしない不満よりも、兵士たちの志気を重視している。[44]

 日本側が交渉要請に応じ、7月2日、東京で協議を場が設けられた。日本側主席代表は外務省北米局参事官・長嶺安政であり、法務省と警察庁の担当官たちが同席した。アメリカ側の代表は、国務省対日政策局長ブライアン・メーラーだった。米側は、日本側に引き渡された軍人容疑者すべてに、当人が尋問内容を理解し、詐欺的な誘導尋問による自白を避けるために、米国政府関係者および米側費用負担による通訳を同伴させることを要求した。法務省と警察庁は、この要求は、日本で確立されている捜査手順への受け入れがたい干渉であると発言した。米側は、他の大半の諸国との地位協定では、米側が軍人容疑者を相手国に引き渡すのは起訴の後であり、日本に対しては、すでに「特恵的な措置」で臨んでいると応じた。交渉は2日間空転して、行き詰まった。合意を目指す2回目の交渉は、7月11日に米国防総省内で行われることが取り決められた。

 協議がワシントンで再開されたが、東京交渉よりも実り多いものにはならなかった。すでに日本側が外国人拘禁者に優れた通訳を提供していたので、通訳問題は主要争点にならず、すべての尋問への米政府関係者、おそらくは弁護士の立ち会いの問題が中心課題になった。

 日本側は、「わが国では、通常の取り調べに法律家の立ち会いは許されていないし、日本側による取り調べに合衆国政府関係者の立ち合いを認める義務が日本にあるとは、地位協定のどこにも書かれていない」と主張した。[45] 風紀を保ち、沖縄での性犯罪を防止するために、アメリカ当局が取った対策は不十分であるとも日本側交渉担当者は指摘した。

 米側は、協議に進展が見られないならば、将来、米軍容疑者を起訴前に引き渡すことに米政府は同意しないだろうと応じた。両国が合意できた唯一の結論は、7月24日に、ホノルルの合衆国太平洋艦隊司令部で次回の会合を開き、合意を目指すことだけだった。

 ホノルルでは、米側主席代表は、レーガン政権時代の国家安全保障会議の元職員、その前にはCIA作戦諜報員で、韓国語が話せるといわれている国防副次官補代理リチャード・P・ローレスだった。外務省は、米側の要求を受諾する用意があると明言したが、それに対し、法務省と警察庁は断固反対だった。日米両者とも、高レベルの政治判断を仰がねばならないとして、交渉は失敗に終
わった。

 7月25日から29日までの間のある日、外務省が大いに驚いたことに、ブッシュ大統領から小泉首相に電話があり、事態について会談した。その結果、内閣官房副長官・古川貞二郎が外務省と法務省の高官たちに譲歩案の作成を指示した。

 そこで7月31日、ワシントンで4回目の会合が開かれ、「凶悪犯罪」の場合に限られるが、尋問に米政府代表の立ち会いが許されると日本側は認めた。ここで言う米政府の関与が認められるのは、「人権」上の理由ではなく、日米間「捜査協力」の名目からである。取り調べの決定的な局面で、米側関係者の暫時退室を、日本側の自由裁量で求めることができる。米側は通訳の選定にも関与することになる。

 米政府は、米側関係者に加えられる、いかなる制限事項も容認できず、凶悪犯罪に限らず、すべての告発について米側の立ち会いが認められるべきであるとして、この譲歩案を拒否した。交渉決裂の結果、1995年の「好意的な考慮」同意は空証文になってしまった。米軍人の人権が保障されないことには、米軍の志気が喪失してしまうので、この件に関して、米側には他の選択肢はないと国防総省筋は語った。

 日米両国が地位協定交渉を断念してからの数ヵ月間、米国は東アジア駐留基地政策を大幅に変革しようとしているという風説が絶え間なく流れた。

 現代世界の民主主義国のなかで、たぶん反米色が一番鮮明な韓国では、地位協定改訂を要求して、あるいはもっとラジカルな一派の言い方では、同国からの米軍全部隊の撤退を要求して、大規模な街頭デモが頻発していた。(こうした状況への対応策として)ラムズフェルド国防長官は、ソウル中心街の旧日本帝国軍司令部にある米軍ヨンサン基地を、どこか別の辺鄙(へんぴ)な土地に移し、北朝鮮領域と接する非武装地帯に近接して駐留する第2歩兵師団を、具体的な場所は未公表だが、漢江の南に移す計画があると公表した。

 ダニエル・イノウエ上院議員(民主党・ハワイ州)は、自民党訪問団に対して、ハワイ経済再生策の一環として、米国が沖縄駐留の海兵隊の一部をハワイへ移す可能性があると示唆した。外務省とリチャード・アーミテージ国務副長官との間で頻繁に行われた協議の場でも、「米軍の沖縄駐留形態の合理化策」について突っ込んだ議論が交わされた。

 日本のマスコミは、従来、この主題は日本側から、あくまでも形式的に提起されるのが常だったが、合衆国が「対テロ戦争」を宣言し、アフガニスタンとイラクを侵略してから、(軍事プレゼンスの)合理化について合衆国は何らかの手を打つことに関心を深めつつあると観測している。

 11月上旬、ラムズフェルド国防長官が日本、沖縄、韓国を歴訪した。彼は、日本の土地に多数の米兵が駐留していることが摩擦の種であり、「緊張の最たるものは、たぶん、犯罪の容疑をかけられた米軍人に、より徹底した法的保護を与えるべきかどうかの問題である」と指摘した。[48]

 ジョージ・W・ブッシュ大統領が、2003年11月27日、「わが国兵力の海外駐留体制の見直しが進められているが、この件に関し、連邦議会、友好・同盟諸国、それにパートナー諸国との協議に、われわれはなお一層の努力を傾ける」と公式声明で語った。[49] 国防総省が従来にもまして「対テロ戦争」に焦点を絞っているので、ドイツ、日本、韓国などの諸国は駐留米軍兵力の相当規模の削減を期待できるだろうと米政権筋は指摘した。

 これが実現するのかどうか、実現するとして何時になるのかを知るのはもちろん容易ではない。これまでの58年間、沖縄は米国の軍事植民地であり続け、その全期間を通して、米兵による地元女性への強姦が米国の帝国的駐留のもっとも顕在的な象徴であった。ウッドランド軍曹、ブラウン少佐、トレス上等兵の不品行が最終的に沖縄の解放を招くとすれば、実に皮肉なことと言えるだろう。

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[原注]は省略しましたが、箇所を番号で示してありますので、必要があれば、
下記JRPI(日本政策研究所)サイトをご参照ください。
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[筆者] チャルマーズ・ジョンソンは、カリフォルニア州バークレーの『日本政策研究所』所長。
著書『アメリカ帝国への報復』鈴木主税訳・集英社(2400円)
『帝国の悲哀??軍国主義、秘密主義、共和国の終焉』(未邦訳・仮題)
The Sorrows of Empire (Metropolitan Books; January 1, 2004)
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[原文]
Tomgram: Chalmers Johnson on imperial rights
posted December 5, 2003, at Tom Dispatch site
http://www.nationinstitute.org/tomdispatch/index.mhtml?emx=x&pid=1112
THREE RAPES:
The Status of Forces Agreement and Okinawa
By Chalmers Johnson
JAPAN POLICY RESEARCH INSTITUTE
JPRI Working Paper No. 97, January 2004
http://www.jpri.org/WPapers/wp97.htm
Copyright (C)2003 Chalmers Johnson
著作権者チャルマーズ・ジョンソンよりTUP配信許諾済み。
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翻訳: 井上 利男 協力: 千早+星川 / TUPチーム


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